アーカイブの考察

 

平安時代も文書偽造(大友安則)

奈良時代には公文書管理の制度が整っていましたが、文書館の役割をする施設についての記録は残っていません。しかし平安時代になると断片的にではありますが、延喜式(えんぎしき)などの当時の法令集などから様子がわかるようになります。それらによると文書や典籍を保管する施設は文殿(「ふどの」または「ふみどの」)と呼ばれて、各役所や国ごとにおかれていました。また文殿は別名「-底(てい)」ともいい、太政官であれば「官底」、大蔵省であれば「省底」、寺なら「寺底」、国なら「国底」というように呼ばれていました。

この中でも重要だったのが当時の中枢機関である太政官(だじょうかん)の文殿です。史料も比較的多く残されています。以下、太政官文殿(官文殿)について述べます。

職務としてはまず文書の保存が挙げられます。保存されていたのは、太政官から発せられた文書、他の役所や諸国から太政官に送られてきた文書、御所の記録などです。太政官から発せられた文書は書き写されていましたが、10世紀終わりの記録によると毎日200枚から300枚あったとのことです。

こうして保存された文書を参照して先例を回答することも大事な職務でした。珍しいものでは応徳2年(1085)、阿蘇で夏に雪が降り、その対処法について大宰府から太政官に問い合わせてきたときの記録が残っています。それによると、長元2年(1029)に出雲で「赤雪」が降ったときには国分寺に祈祷をさせたという事例を回答しています。

官文殿には専任の職員が置かれていました。地位が低かったので名前が残っていない場合が通常ですが、事件を起こして記録されている人物が何人かいます。その一人が大友安則(おおとものやすのり)です。彼は天慶四年(九四一)、丹波国で発生した土地争いの裁定書を偽造するという事件を起こしました。偽造したのが太政官発行の官符という権威がある文書であり、しかも起こしたのが文殿職員という当時としてはかなり深刻な事件だといえます。一方で現在の視点で見ると当時の文書行政の実態が分かる貴重な記録といえます。

社史・アーカイブ総合研究所

お電話でのお問い合わせも受け付けております。

06-7777-9028(大阪)