アーカイブの考察

 

武士とはなにか

千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館で2010年10月26日から12月26日まで「武士とはなにか」と題した企画展示が行われました。「サムライ」「武士」というと単純にプラスイメージで使われることの多い昨今ですが、その多様な実態が紹介されています。

今回は展示資料のなかから、一風変わった、ちょっと生々しい内容の文書をご紹介します。年代は享保(きょうほう)16年(1731)、江戸時代の8代将軍徳川吉宗の時代です(以下、釈文等史料については展示図録を参考にしました)。
文書の一部を引用します。

首注文古案一冊並師説私之覚一通
慶長何年何月何日
於摂州大坂表討捕首注文
一、首一(中略) 前川与右衛門 正木九郎兵衛討捕之
一、首一(中略) 名字不知 憲松九右衛門討捕之
一、首二 井上与兵衛/名字不知 太田金平討捕之
一、首一 法師名不知 右同
(中略)
巳上
首数都合何百何拾
此外討捨数不知
(以下略)

これは戦場で討ち取った首を集計した文書(首注文あるいは首帳と呼ばれます)の文例「首注文古案一冊並私説私之覚一通(くびちゅうもんこあんいっさつならびにしせつわたしのおぼえいっつう)」です。戦では討ち捕った敵の首(あるいは耳や鼻)が手柄の証拠になりますが、首注文で集計します。

今回の首注文の内容を見ていくと冒頭の「慶長何年何月何日 於摂州大坂表討捕首注文」は大坂の夏の陣もしくは冬の陣での討ち捕り首の集計を想定していることを示します。続く数行では武将ごとに討ち捕った首の数、相手の名前、討ち捕った者の名前が列挙されます。たとえば最初の行、「一、首一(略) 前川与右衛門 正木九郎兵衛討捕之」とは「正木九郎兵衛が討ち捕ったのは前川与右衛門の首一つ」という内容です。これは戦い終了後、正木九郎兵衛が討ち取った首(あるいは耳や鼻)を持参して大将に示しそれが功績として認められて首注文に公式に記録されたことを意味します。

最後に「以上討ち取った首はあわせて~百~十(実際にはここに具体的な数字が挿入されます)。この外数知れずたくさんの数の首が打ち捨てられた」とあります。

首注文で認められた功績に応じて役職や所領などの褒美が定められました。いわば勤務評定の一覧です。さらに集計されたデータは大将の功績としてさらに上位の大名などに提出され最終的には全軍の大将のもとに集まったものと思われます。

戦いでの功績を認定する文書には「着到状(ちゃくとうじょう)」、「軍註状」(ぐんちゅうじょう)をはじめとして多様な文書が存在しましたが、これはその戦いの目的や意義がなんであれ、個々の武士にとっては自分が手柄を立てることが非常に重要だったことを意味するのでしょう。

また今回の首注文の文例が作成されたのが、大坂夏の陣(1615)や島原の乱(1637)のような大規模な戦乱がなくなってから1世紀ほどがすぎており、首注文が実際に使われることがなかったはずの享保年間であったことは、武士の意識を考える上で大変興味深いといえます。

 
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